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■コンサート・セミナー情報
中止しています 浴風園第二南陽園 11:00~ 高橋舞ミニ・コンサート 1/15,2/5,3/12 桐朋学園10:30~ 桐朋講座 1/30,2/20,3/27, 4/24 代官山ヒルサイドテラス 14:00~ 高橋舞の新音楽セミナー"聞けば、聴くほど"Vol.10 高橋舞HP 高橋舞Facebook 株式会社オフィスクラング オフィスクラングFacebook オフィスクラングTwitter ■演奏・講演のお問い合わせ こちらまで ■プロフィール 桐朋学園大学ピアノ専攻卒業。ザルツブルク・モーツァルテウム音楽大学大学院修士課程ピアノ・コンサート科修了。ウィーン国立音楽大学にて室内楽、チェンバロを学ぶ。ステファノ・マリッツァ国際ピアノコンクール、フロレンターノ・ロッソマンディ国際ピアノコンクール入賞。これまでにイタリア、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、クロアチアで演奏。銀座王子ホールでのピアノ・リサイタルを機に、拠点を日本に移す。2013年アメリカ、サン・ノゼでピアノ・マスター・クラスを開催。桐朋講座講師。代官山ヒルサイドテラス「高橋舞の新音楽セミナー“聞けば、聴くほど”」講師。セミナー受講生を対象に、これまでに「高橋舞と巡るウィーン、ザルツブルクの旅」「ドイツの旅」「ハンガリーの旅」を実施。来年「フランスの旅」を実施予定。2019年3月東京大学大学院人文社会系研究科文化資源学研究専攻修士課程修了。同年4月より同博士課程在学中。演奏活動と並行してバッハ演奏受容史を研究している。 六本木シンフォニーサロン10周年記念企画動画にインタビュー動画が アップされました。 ぶらあぼに 写真付きインタビューが 掲載されました。 月刊「ショパン」11月号に写真付きの記事が 掲載されました。 カテゴリ
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新垣氏による会見以来、今回の問題について私なりに考えています。昨日の佐村河内氏の会見を見たところ、予想以上に音楽のことを分かっていないように感じました。
作曲の専門家の方々は、同業の事に関してコメントしづらい面があると思いますし、また記者会見での質問を聞いていると、一般の方々はどの点が矛盾しているのか分かり難いだろうと思いました。作曲に関しては専門外ではありますが、クラシック音楽を職業としている身で、現代作曲家から少なからず直接指導を受けて作品を演奏したこともあるので、多少は分かることがあります。会見で感じたことをここに書いてみたいと思います。 新垣氏は、「音のモチーフを提示し、ピアノで録音して彼がそれを聴く。その中から彼がいくつか選んだものを私が全体を構成していました」としていました。どう考えても、この発言通りの方が作曲に関わったと言えると思うのですが、佐村河内氏は飽くまでも聴力を否定し、新垣氏に詳細な指示書を渡した後は「彼が忠実に作る音楽は信じていました。聞こえなくなってからは、確認などはありません」としてその作品を聞いたり、確認したり、選択したことは無いと断言してしまいました。しかも出来上がったスコアを読むことはおろか、絶対音感も無いと明言していました。この点に私は非常に驚きを感じました。なぜなら、それでは作曲に関与したとほとんど言えなくなってしまうからです。 しかし佐村河内氏は詳細な指示書を作成したから、作曲したと言えると思っているようでした。指示書は報道されている以上のものを見たわけではありませんが、交響曲第1番「現代典礼」(後にHIROSHIMAになったもの)の指示書を見る限り、あれを見て実際に作曲する際にどれだけ内容を規定できるかというと、ほとんど出来ないと思うのです。分かりやすくいうと、あの指示書からは何千通り、何億通り、それこそ無限大の曲の可能性が存在するということです。 かつてロマン派の時代に活躍したピアニストたちが、こぞって自分の技量を発揮できるピアノ協奏曲を作曲しました。ピアノのための作品は書けても、オーケストレーションは出来ない場合、オーケストレーションを別人に依頼していたケースもありました。でも少なくてもソロの部分は自分で書いて、伴奏部分を依頼したはずです。 楽譜での何らかのテーマなりモチーフが無い時点で、それは指示書の体をなしていないと思います。元々の曲(の一部でも)があってのアレンジというわけではないのですから。どのような楽器を使うのかと言った具体的な指示も無いですし、この指示書からどのような音楽が書かれるか全く予想ができません。ということはこの指示書では、誰が実際に作曲したかで、全く違う音楽になるということです。 それから余談ではありますが、指示書に書かれているグロテスクな内容に困惑してしまいます。グレゴリオ聖歌、中世的ポリフォニック、バッハ(4声コラール集、ヨハネ受難曲)、モーツァルト(レクイエム)、ぺンデレツキなど様々な時代の、クラシック音楽史上有名な宗教曲の名前が並んでいます。それぞれの作曲家は独自の技法で作曲をしているので、それらをミックスしたら傑作になるわけではないし、むしろミックスしたら酷いことになると容易に想像がつきます。例えば、私が画家に風景画を依頼するときに「ゴッホのような情熱的な太陽をいれて、レオナルド・ダ・ヴィンチのような空気遠近法を用いて、コローの森のような幻想性も出し、クールベの岩肌のような写実性も加えて、クリムトのような華麗な装飾性も入れるように」と指示を出すようなものです。 指示書に書いたようなイメージを具体的な音にする作業こそが作曲という行為です。新垣氏は会見で、「図表は実際の作品の曲のなりゆきとは全く異なりますけど、あの表を私が机の横に置くということで、それをある種のヒントとして私が作曲する上では必要なものだったと思います」と答えています。まさにこれ以上でも以下でもないと思います。私はこれまでの現代音楽の作品発表会で、新垣氏の作品を2回聞いていますが、どちらも素晴らしい作品だと思いました。新垣氏が著作権を放棄するとおっしゃっているのは、ご自分の作品と明確に分けて考えていらっしゃるからだと思います。飽くまでも「指示書」があったから生まれた音楽であり、専門家としての知識を使い、職人に徹して生まれた作品であり、新垣氏にとっての本来の創作とは全く異なっているのだと推測します。 あと一つ「調性音楽」についての下りには、心底うんざりしました。あたかも現代音楽は無調音楽だけで書かれているというような論調にびっくりしましたし、自分がこれで発表を止めることでせっかく希望の光が見えていた調性音楽が衰退してしまうのが残念というような発言がありましたが、現代音楽についてその程度の知識しかないのかと唖然とします。 作品を聞いていた方の「裏切られた」という感想はもっともだと思いますが、ここではそのことについてもう少し考えてみたいと思います。 音楽は同じなのに、どうして裏切られたと感じられるのでしょうか。他者が作っていたというのは確かに裏切りです。書きづらいことではありますが、元々作曲家が健常者であったなら、これほどの騒動になっていなかったかもしれません。健常者でない人が作った音楽だから、背後にあるストーリーに感情移入でき、感動が増したのでしょうか。もしそうであるならばハンディ・キャップのある方に対して無意識的にせよ優越感を持っていることと同じになってはしまわないでしょうか。障害があるのにこんな曲が書けるなんて凄い、という。佐村河内氏はしかし、世間というものがもしかしたら障害のある方に対して無意識的に持ってしまっている感情を、驚くほど客観的に捉え、セルフプロデュースに利用していたとも言えます。会見で「サプライズで、義手のバイオリニストが登場したらみんなが感動してくれると思いました」と答え、次いで「彼女の障害を使って感動させようとしたのか」との質問に「感動すると思いませんか」と答えるのを聞いたとき、本当に嫌な気持ちになりましたが、今回の騒動の核心に触れる発言であったと思います。 この騒動以来、私にのしかかって来る大きな問題は、そういったストーリーがどうして芸術に付随しやすいのかということです。それはやはり、絶対的な評価基準がなく、分かりにくいということに尽きるのだと思います。分かりにくいからこそ、どうしても背後にあるストーリーだとか、専門家など他者が下した評価を鵜呑みにしてしまうという側面があるのだと思います。 セミナーや講座で音楽について講義している私は、今回の騒動について、何回か意見を聞かれましたが、その中で外国ではこのようなことは起こらないと思うか、という質問を受けました。非常に難しい問題ですが、私が留学していたオーストリアでは、例えば演奏会のポスターに「〇〇コンクール優勝」といった類の肩書が書かれることは皆無です。今でもよく覚えているのはショパンコンクールを18歳で制したユンディ・リーが、ウィーンに登場したのは優勝から何年も経ったあとで、もちろんショパンコンクールのこともポスターに書かれていませんでした。小ホールからのスタートで、聴衆が実際に聞いて判断するという感じでした。 それから良くないと思うものに対する意見の表明の仕方がハッキリしていて、例えば世界的なピアノの巨匠であるポリーニが現代音楽だけの演奏会をしたとき、演奏中にも関わらず、お客さんが一人二人と帰っていき最後は半分くらいになってしまいました。しかも足音もわざわざ大きな音を立てているように思いました。いくら巨匠が弾いていても、つまらないと思ったときは意思表示をするのです。ちなみにその演奏は素晴らしく、ショパンなどを弾いていれば拍手喝采が貰えるはずのポリーニが、一流演奏家の責任として現代音楽を積極的に取り上げる姿勢には本当に頭が下がりました。 一方日本においては芸術に付随するストーリー重視に陥りやすい傾向があって、一度広く認知されてしまうと、それをNOと言う風土があまり無いように感じます。本来、音楽というものは、自分の感性だけが頼りで、自分がいいと思う感覚こそが絶対的なものです。人の評価など一切気にせずに、音楽を聞いてもらいたいと心から思っています。高橋選手がオリンピック前に出したコメントで、人物については知らなかったが、曲を気に入ったから採用したという主旨の発言がありましたが、それを聞いて私は救われた気がしました。今までにこれらの音楽を聞いて感動したと思った方は、それを恥じることは一切ありませんし、その音楽に感激したという気持ちや感性を大事にして頂きたいと思います。 クラシック音楽が難解で分かり難いというイメージを払拭するために様々な活動をしている私にとって、今回の問題は非常に重い問題です。しかし今回のことで、日常の中で芸術に触れたいと考えている方は実は沢山いらっしゃるのかもしれない、と思い至りました。そうだとしたら芸術や音楽に携わる人間は、その思いにもっと違った応え方があるのではないかと思いました。 この問題について、これからもずっと向き合っていきたいと思います。
by maitakt
| 2014-03-08 19:10
| 音楽のこと
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